昭和44年3月14日 朝の御理解 (末永信太郎) №44-041
御理解第二十五節
信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。
信心は大きな信心がよい、と。大きな信心にならにゃいけん。ね。大きなおかげの受けられる信心ということになると思うです。大きなおかげの受けられる信心、それが大きな信心ですね。大きな信心とは、大きなおかげが受けられる。合わせ鏡と同じと仰るのですから、こちらのいわば、信心しだい、心しだいていうことになる訳ですから。こちらが大きな心、大きな信心をさせてもらえば、大きなおかげが受けられる。
しかも、それを一心と定めいと仰るのですから、一心と定めて、信心。小さいことにこだわらないで済む信心、豊かな。だから、けっきょく私は思うのに、有り難いという心でそれを気にならんようになるおかげを頂く以外にはないと思う。ね。ただ、大きな心とか、豊かな心とかと、こう言うても、それは、性格的にありますよね。やはり、心の大きい人、心の小さい人あります。
ですから、心の小さい人は、私どものように心が小さい。人間は、もう、小さいおかげしか受けられんことになる。けれども、それが一度信心になると、それが一つは、信心の喜びに触れる時。そこには、やはり、気になることも気にならず、不安になることも不安にならず、言うなら、腹の立つことでも、寂しいことでも、悲しいことでも、その、有り難いという心で消していく。
信心で言う大きな信心、大きな心というのは、そういうなもんだと、こう思う。ここは、ひとまず自分が大きくなって、というようなものではなくてね、やはりその、事柄が有り難いという信心によって、おかげを頂けれるもの。ね。有り難いという心で打ち消されて行くもの。それがありますもんね、やっぱ一人ひとりの性格ていうものが、小さいことが気になって気になってたまらん、心配になってたまらんという人がある。神経質なんですね。小さいことが、ちょっとしたことで、もう、イライラしてたまらん。
ね、ちょいとしたことが、もう、腹が立つ。それで、ただジッと辛抱しておるのは、実に辛い。今度、また、もうちょっとしたこと、もう、人のことは良う気がつく。いわゆる、人の足元がよく見える。自分の足元のことは言うたり思うたりせずに、人の足元ばかりが見える。ですから、人を非難する。指図、ね。
本当に深く広く自分の心を、こう、見極めて行きよったら、自分の足元さえ見極めて見よったら、人の足元なんか見えるはずはない。ね。自分の心の破れから、人の心の破れを覗いておるというようなもの。ね。向かいの嫁さんは、どうしたびったりじゃろうか、と。障子どん張りゃよかと、こう言うて。もう、ぜんぜん、障子は破れとるち、向かいの嫁さんがそげん言いよる。どうした向かえの嫁さんな、障子があの、ぴったりだろうか、と。破れ障子を立ててから、と。何の、こっちから、向かいの方から見よる嫁さんも、自分方の障子の敗れからそれを見とったちゅうような。ね。そんなもんなんです。
自分のことはなかなかわからんから、自分のことをいつも、いわゆる、鏡を立てて自分自身、教えの鏡を立てて、自分というものを見極めなければ。あの人がああだから、この人がこうだから、というのじゃない。けっきょく、信心とは、もう、私のことなんです。人のことじゃない。ね。
いつか、北野の中村さんが頂かれた御理解の中に、ね、もう、あんた下駄屋さんじゃから、下駄屋さん、本当に下駄屋さんになった気持ちで、自分の足元、ね、いわゆる、人の方ばかりをこうやって、眺めさせて頂いておくというような気持ち。ね。私は、大きな信心がよいと仰る。その、大きな信心とは、大きなおかげの受けられる信心だと、今日は思う。
そこで、その大きな信心をさせて頂くために、まず、なら大きくなら大きくなろうと言うておるだけではつまらん。それは生まれつき、大きな心の人もおりゃ、小さい心の人もある。けれども、信心で言う大きな心というのは、それじゃない。大きな信心とは、それじゃない。大きな信心とは、ね、どのようなことがあっても、どのようなものを見てもです、それがです、有り難いという信心が頂く、有り難いという心で打ち消されて行く心だと、こう思う。
そういう、んなら、有り難いという心が頂けれるための信心も、様々な信心がある中にもです、ね、自分をやはり本気でひとつ、知るというか、見極めるというか、と行くところから、ね、有り難いとゆうものがね、有り難いというものが湧いてくると言うか。または、相すいませんとかというお詫びの心が湧いてくる、と。まあ、今日の、ここで私は有り難いという心で消して行くといったようなことを申しましたが、その有り難いという心ということは、お詫びをする心も入っとると思うですね。
いつも自分の心、その、お詫びをする、しておるという心。昨日は、十三日会でございました。たくさん、みんな集まってから、もう、遅うまで、もうそれこそ、いつまでも、その有り難い話が尽きぬほどにおかげを頂きました。昨日私は、まあ、具体的なことが、その、申し上げられませんけれども、もう、何と言うでしょうか。普通であったら、もう、実に不愉快。または、もう、シュンとしてしまうようなことが、次々とあった。それを聞いただけで、見ただけで。ね。
そんなことを私、夕べ休みがけに家内に話しましたら、家内が、どうしたこまい人でしょうかねって、私のこっちゃない、その相手のその人のことを言うんですよ。どうしたこまい人でしょうかねち言うてから、(夕べ?)聞かせて頂きよってから、「こまかは、こっちん方」と思うたんです。これは自分が言われとるような気がしました。家内に話さんならんということは、まだ、どこにかそれが残ってる訳なんですよね。
今日はこうこうじゃったっち。どうしたこまか人でしょうかねち。本当にこまいのはあっちじゃなかった、こっちじゃったとも気付かせて頂いた。ね。昨日、一応だいたい、まあ、おかげを頂いておった。というのは、シュンとしてなかった、実際において。また、暗い心にもなっていなかった。なぜかって言うと、昨日は十三日じゃから。はあ、十三日という日は、もう、いよいよ神様の願いが成就する日。神の願いが地上
になる、神の願いが大坪聡一郎の上に現われる日。これは、大坪聡一郎に、皆さんの一人ひとりの上にも、それを感じられる日。
私は、そのことを実際目の当たりに見ておると、高橋さんと茂さんに話しましたが。この前、この日はちょっと久留米に参りましたから、車の中で、あんた達もそういう実感をすることがあるだろう、と。今日は十三日だ、と。どういうことがあっても、はあ、今日は十三日会、これはおかげだという風に頂くでしょうが、と。そういうことが、もう、はあ、そういう、やはり体験を致しますと、こう言う。
十三日の日には、それを思えれる。どういうことが起こっても、これはおかげだ、とこう思える。ね。十三日の日にあったんだもん。これは、例えば、それは痛い思いをする、痒い思いをするようなことがあっても、神の願いが成就しておる時だ、と。しかも、それは私の上に成就しておる時だ、と。十三日という日は、十三日という日を大事にすればするほど、そういう思いが募らなければ嘘ですね。十三日会の値打ちはなかです。例えば、三十日間なら三十日という風に、せめて十三日という日、一日だけぐらいは、ね、神様の願いが成就する、神の願いが成就することのために奉仕しよう、という日なんです、ね、ここでは。
だから、そのことが出けておるなら、おればおるほど、例えば、十三日会の日に例えば寂しいことが、または、心が暗くなるようなことが。それで、昨日は麻生さんなんかは、自動車に追突した。人の車に追突したんです。お届けに見えた時、はあ、おかげ頂いたなと、私は申しました。なぜか、十三日だから。ね。
だから、なら、麻生さん自身が十三日という日を大事にしとりゃあ、麻生さん自身もそう思えなければ嘘、思えるんだ。ね。だから、私はその思うのです。神様がこういうような演出をして下さって、神様の願いが成就して。それは、昨日の私の場合なんかは、本当に心が暗くなるような(金がないけど?)、どうしたほんなこて、こまい事を、こう言いよるかと思うような事だけれどもです、はあ、こんな風にして神様の願いが成就して行っておる時だと思うから、やはり、有り難いというものが生まれてくる。
有り難いというものが、それを打ち消しておる。けれども、その、まあ、一日をこう振り返ってみると、打ち消しておるように、おかげを頂いておるようであっても、まだ本当のすっきりでなかった証拠に、家内に休みがけに話した。実は、今日はこうこうじゃったち。本当に家内が、どうしたこまか人でしょうかねち、こう、それを聞いて、あっちがこまかじゃなかった、こっちの方が、まあだ駒かたいと、こういう事になって来たわけなんです。ね。
人だんじゃない、自分なんだ。だから、ここんところをです、私は思うのに、私は毎日が十三日のつもりの信心こそですね、いよいよ私は、信心は大きな信心がよいと仰せられるのは、それだと、こう思うです。ね。ですから、それぞれに商売をしておる人、お百姓をしておる人。ね、様々な御用に携わっておる人がです、そのこと事態が神様の願いに応えての奉仕であるという事になったら、毎日が十三日会だと、こう思うですね。その十三日会の精神というものは、十三日会の日、一日持てと言うのじゃない。
私どもが出来ん。出来んから、せめて、その十三日会という日一日ぐらいはです、ね、まあ、あのようなおかげに、今なって来ておるわけでございますけれども。そこに体験させてもらうものは、十三日会の日に起きてくるという、例えば事柄をです、普通なら腹の立つようなことでも、はあ、神様の願いがこのようにして成就して行っておるんだと思うと、有り難うなって、ね、しかもそれは誰彼じゃない。私のために成就しておる、それが姿である事実をです、この、実感されるというか、確信される。
それはお互い、十三日会というその日を大事に、神様の願いが成就することのために、奉仕しておるから、そういうことになるのですから。その十三日の精神を、ね、来る日も来る日も、その気持ちでの信心が出ける。十三日会の一日だけは、あなたの気持ちになってから働きよるけん、後の29日は神様の気持ちになって働いて下さい、といったようなものではなくて。ね。
そこんところを、私は自分のものにして行くということが、十三日会の値打ちでもあると同時にです、それが私は、大きな信心だと思うですね。四神様が、氏子大きな信心をせよ、と。大海には鯨が住もうが、と仰せられる。ね。竹の筒に水が溜まったような信心をするから、おかげが、いわゆるボウフラぐらいなおかげと、(ぼうふりきん?)ですね。腐れ水の中には、この水虫をぼうふらと言う。
竹の筒に水が溜まったような信心。いわゆる、小さい信心。もう、小さいことは、気になって気になってたまらん。もう、人の足元ばっかり見える。不平不足ばっかり言おうごたる。これじゃね、信心しとるからおかげは受けましょうけれども、それは、ぼうふらぐらいなおかげしか受けられんと、こう仰る。ね。大きな信心せよ、大きな信心とは大海のような信心せよ、と。
大海じゃなし、大海には鯨が住もうがと、こう仰る。ね。鯨の住むようなおかげ、いわゆる、大きなおかげなのだ。ね。どんなことがあっても、平気でおれる。どんなものが流れ込んできても、嫌とは言わん。ね。それを今日は、嫌とは言わん、黙って受けておるというのではなくてです、それは、ね、私どもは人間だから、やはり嫌なことは嫌なんだけれどもです。ね。それが、神の願いが成就して行っておるんだ、しかも、私の上に、ね、神の願いが地上になる。神の願いが、大坪聡一郎その人の上に成るということは、成就するということですよね。
私の上に成就しておるんだと分からせて頂くから、それが有り難い。黙って受けておるだけじゃなくて、そのことにお礼を申し上げれる心。そこを、いよいよ追求して行くという信心。ね。今日は、大きな信心。ね。これは、大きなことを願わにゃん。(ちょうど?じょうど?)神様は私を、なら私、これはもう、私のことです。まあ、九州きっての大商人にならせて下さい。いわば、商売人だから、商売のおかげを頂きたい。だから、何と言うても、九州の中心地は福岡だから、福岡へ出て商売させてもろうて。ね。
それこそ、無資本状態の商売人ですけれども、そこから、ひとつ大きなおかげを頂きたい、大きな商売人にならせて下さい。そして、大きな御用に使うて下さいと言うて、まあ、一生懸命願った。それが大きな信心のように思うたけど、それ、そうじゃないですよね。なぜかて、それが成就しなかったもん。あまり一生懸命だから、神様はある場合には、ある時期には、本当に置いた物を取るようにお繰り合わせを下さったけれども、その、いわゆる後半に至っては、それが反対に反対にと、こう、出てきたと、なって来た。
そこにです、私が、大商人にならせて下さい。そして、大きな御用をどんどんさせて下さい。大きな御用が出来れるような私にして下さい。なるほど、大きな願いですから、大きな信心のごたるけれども、大きな願いをするということが、大きな信心じゃない。ね。だから、大きな信心とは、もう、どこまでも今日私が申しますように、もちろん、大きな信心が出来りゃあ、大きなおかげが受けられることは、間違いないのです。ね。大海のような信心すりゃあ、鯨が住むこと間違いない。
ね、それを、どうぞ鯨の住むようなおかげを頂かせて下さい、鯨の住むようなおかげを頂かせて下さいばっかり言うて、大海のような信心をしとらんでは、鯨の住みどころがないですよね。と言うて、そこで腹ん立ってたまらん。それであなた、やはり、竹の筒にぼうふらが湧くようなおかげしか頂かれませんです。大きなおかげを頂かせて下さい、鯨のようなおかげを頂かせて下さいと言うなら、まず、ひとつ大海のような信心させて頂いて、おかげを頂く。
それを今日は、十三日会の言うならご精神をですね、もう、日々の上に、それを頂いて行くけいこ。ね。そこから、はあ、神様のご都合だ、と。神様の働きが、もう、ここにはじまっているんだ、と。ね。神様の願いが、このような形、姿で成就して行っておるんだと解らせて頂いたら、そのことが、いわゆる有り難うなる。いわゆる、有り難いという心、勿体無いという心。または、ね、さっき、自分というものを見極めるところから、ね、自分というものをジーッとこう見つめさせて頂いておると、詫びる心が生まれる。
その詫びる心で、有り難いと思う心で、その事柄が消えて行く。不平不足を言わねばならないことが、反対にお礼を申し上げねばならんということに、気が付かせてもらう。そこに現われてくるおかげを、私は大きなおかげだと、こう思う。ために、どうしても、まず、信心は大きな信心がよいと仰せられる、大きな信心をさせて下さい、大きなおかげを頂くために、大きな信心をさせて下さい、と。
ただ大きなおかげを頂かせて下さい、というだけじゃいけない。大きな信心をさせて下さい。その大きな信心とは、今日私は、そのように、今日は聞いて頂きましたような信心を持って、いわゆる、大きな信心がいよいよ育って行くんだという風に聞いてもらいましたですね。どうぞ。